チベット自治区

cc Antoine Taveneaux

cc TUBS

 平均標高4500メートルの高地に位置するチベットは、1965年、中国に併合されて、中華人民共和国チベット自治区となるまで、宗教的権威であるダライ・ラマが、同時に国政の首長をつとめる、世界で最後の神政国家でした。しかしながら、併合後は、中国による同化(漢化)政策で「チベットらしさ」がどんどん失われていっているようです。

1.チベット仏教とダライ・ラマ

 ダライ・ラマの「ダライ」は「大洋」、「ラマ」は「師」を意味し、英知が大洋のごとく広大かつ深遠な師であることを指します。この称号は16世紀のモンゴルの指導者であるアルタイ・ハンが、チベットのデプン寺第三代座主ソナムギャツォに初めて与えた称号で、後に、初代、第二代のラマも遡ってダライ・ラマと呼ばれるようになりました。ダライ・ラマは、観音菩薩の化身とされ、絶対的信仰の対象であると同時に、チベットの首長として国政を預かるという、いわば「生き仏」的な存在です。

 チベット仏教では、仏の生まれかわりであるダライ・ラマは永遠に不滅であるが、肉体は古くなると汚れるので、魂は別の清浄な肉体に移るのだと考えられています。われわれが死と考えているのは魂の宿替えに過ぎないのだそうです。また、ダライ・ラマはその肉体が滅びるとき、生まれ変わる場所を預言するということになっています。ちなみに現在のダライ・ラマは第十四世にあたります。

 歴史的に見ると、チベットに本拠地を構えた最初の王朝は、7世紀に興った吐蕃王朝でした。吐蕃は中国(唐)とたびたび争いましたが、一時は首都長安を占領するなど、なかなか手ごわい存在だったようです。その吐蕃王朝が崩壊した後は、長い間チベットに統一王朝ができなかったのですが、13世紀にモンゴルの部分的な支配を受けたほかは、他国の支配を受けることもありませんでした。

 さて、インドからチベットに伝わった大乗仏教は、チベットに定着した後、モンゴルにも伝わり、13世紀にはモンゴル人の多くが仏教に帰依しました。そして前述の通り、16世紀には第3代のダライ・ラマがモンゴル人の深い信仰を得て、チベット、モンゴルに及ぶ広大な地域の精神的指導者になったのです。これがチベットの原型となる、ダライ・ラマによる神政政治の発端となりました。

 余談になりますが、チベット仏教は、俗にラマ教と呼ばれていた時期がありました。しかし、チベットの仏教者に言わせれば、自分たちの信奉しているものは仏教であって、ラマ教という個別の宗教ではないということから、ラマ教という呼び方を嫌う傾向があり、現在では一般に「チベット仏教」という言葉が定着しています。

2.中国の介入と民族性の崩壊

 さて17世紀、第5代ダライ・ラマの時代になると、その宗教的影響力は、モンゴルの勢力と共に広く中央アジアに広がります。モンゴルの侵入に悩む清朝は、ダライ・ラマの絶対的な宗教的影響力を利用するためにチベットと同盟関係を結びますが、それ以来、徐々にチベットの内政に口を出すようになります。清朝は、中国の関与に批判的なチベット政府要人を暗殺するなどしてダライ・ラマの行政権を徐々に奪い、1750年からは清朝が派遣した4人の大臣がチベットを間接的に統治することになります。

 19世紀後半に入ると、今度はイギリスがチベットにちょっかいを出し始めます。インドを植民地化したイギリスは、1886年にインド・チベット間の国境を一方的に策定すると、1904年にはチベットの開発権と外交権をイギリスの支配下に置くという、ラサ条約を勝手に締結してしまいます。あわてた清朝は、チベットの帰属問題についてイギリスと話し合いますが(シムラ会議)、結局合意には至りませんでした。

 1911年の辛亥革命*によって清朝が崩壊すると、ダライ・ラマは、チベットから中国人勢力を一掃。清朝の後継者となった中華民国政府からも、第二次世界大戦後に、チベットが自治権を得るという約束を取りつけました。

 しかし、1949年の中華人民共和国成立により、チベット問題は再燃します。「チベットは中国の一部」と主張する中国共産党は、50年、チベットに軍事介入。翌51年には「17条協定」を結び、事実上の併合を宣言します。

「17条協定」では、チベットの自治、信仰、風俗、習慣を尊重することが確認されたのですが、中国が実際行なったことは、民族性の徹底的な破壊運動でした。特に、チベットの国教である仏教は、その布教活動の禁止、寺院の破壊活動等を通じて徹底的に弾圧されました。怒った民衆は59年に反乱(チベット反乱)を起こしますが、駐留する中国軍によって粛正され、ダライ・ラマ14世はインドに亡命。チベット亡命政府を樹立します。ダライ・ラマ14世は、以後インドで独立運動を展開して来ました。ちなみに、このチベット亡命政府は、ダライ・ラマ14世と内閣、人民代表委員会(議会)を備え、63年には民主憲法も発布しています。

 中国の「チベットつぶし」はその後も続けられ、特に66年の文化大革命では、チベット的なものはすべて弾圧、破壊の対象となりました。また、65年のチベット自治区誕生以降の同化政策によって中国人の流入が進み、現在の人口は、チベット人610万人に対して中国人が750万人と中国人の数のほうが上回る状態になっています。そういった中国の動きに対し、チベットの民衆は息の長い抵抗運動を展開。89年の暴動では、500名から800名の死者を出すに至りました。

 一方、暴力を否定し、中国との対話によってチベットの独立自治を要求するダライ・ラマ14世は87年、アメリカで対中国和平5項目提案を提出、88年にはヨーロッパ議会で、外交と防衛の権限を中国が持つという妥協案を出しますが、中国側はこれらの提案を一切否定して現在に至っています。95年、中国に対する最恵国待遇延長の条件の一つとしてアメリカが掲げたのがチベットの人権問題の解決でしたが、これも中国側に完全に無視された形になりました。ちなみに、ダライ・ラマ14世の、こうした平和的紛争解決の呼びかけに対して、89年にノーベル平和賞が与えられています。

3.中国版パンチェン・ラマの出現

 さて、チベット亡命政府との一切の妥協を拒んでいる中国政府は、ダライ・ラマに次ぐ第二の宗教指導者であるパンチェン・ラマ10世の後継者選びにも口を出し、95年11月、こともあろうに5歳の幼児をパンチェン・ラマ11世として自ら任命してしまいました。ダライ・ラマと同様、パンチェン・ラマの称号は、チベット仏教独自の選出方法で定められ、ダライ・ラマの承認を得た者にしか与えられませんから、この中国版パンチェン・ラマの出現は、たとえて言うなら、外国が日本の皇族を勝手に選ぶ行為に等しいものです。もちろんチベット人にとっては受け入れがたい挑発です。

 ダライ・ラマ14世がチベットを後にして、インドで独立運動を開始してから40周年にあたる99年に六十四歳の誕生日を迎えたダライ・ラマ14世は「私が転生する場所は中国が支配するチベット以外だ」と発言。これは次代のダライ・ラマ15世が中国政府によって選ばれることのないように、けん制したものだということですが、パンチェン・ラマを含めたチベット仏教の後継者は確定していませんし、中国政府がダライ・ラマの後継者を認めるはずもありません。最近では2020年5月、「パンチェン・ラマはどこにいる」というアメリカの問いかけに対し、「パンチェン・ラマは普通の中国国民として生活している」という談話が発表されるなど、チベット仏教とチベットの独立運動に関心のかけらも示さない中国政府の姿勢が再確認されました。

 2019年、チベット亡命政府は発足してから60年、ダライ・ラマ14世は84歳の誕生日を迎えました。中国の一方的な支配に踊らされるチベットの運命は、未だ見えてきません。


*辛亥革命

 清の崩壊と中華民国の成立につながった1911年の政変。1911年の干支が辛亥であったことからこの名前がつけられた。孫文の影響を受けた革命軍が武昌と漢陽を武力制圧して中華民国軍政府の成立を宣言。清は革命軍の鎮圧に失敗したため、残る15省の独立につながった。1911年12月29日に上海で孫文が中華民国大総統に選出された。一方で、清朝皇帝の溥儀が1912年に2月12日に退位して清朝は滅亡した。

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