中華人民共和国

出典:外務省HP 

 中華人民共和国は、2019年で建国70周年を迎えました。また、2019年は、天安門事件から30周年目にもあたります。1980年代後半から堅調に推移した改革解放政策以降の中国の経済発展には目覚ましいものがありますが、わずか30年足らずで中国を世界の超経済大国にまで押し上げた改革開放路線も、鄧小平の行った改革がもとになっています。以下では中国の変革と解放の歴史を、鄧小平の歴史と重ね合わせて見ていきましょう

1.鄧小平時代の中国

 清朝末期の1904年に四川省に生まれた鄧希賢(小平)は、16才の時に奨学金で渡仏。5年間パリで過ごします。当時のヨーロッパは、19年のロシア革命の影響を受けた活動家が、コミンテルンという共産主義組織を結成。精力的に活動を展開していた頃でした。特に中国の共産化をもくろんだソ連の指導者層は、在仏の中国人留学生にも接触。この中から将来の中国共産党の指導者が数多く誕生します。

 渡仏して間もなくの鄧小平に最も大きな影響を与えた人物が、当時フランスで留学生活を送っていた周恩来でした。1921年、毛沢東が上海で中国共産党を結成すると、周恩来はパリで「社会主義青年団」を結成。これに加入した鄧小平は、以後、中国の共産化を目指し、活動を開始するようになります。

 しかし1925年、社会主義青年団の活動に目を付けたフランス当局は、活動家の国外追放を決定。鄧小平は、26年、モスクワに逃れます。当時のモスクワ留学組には、蒋介石の長男の蒋経国がいましたが、彼は後に台湾の総統となって、鄧小平と「一つの中国」問題、つまり、中国共産党が唯一の中国の代表か、または台湾の国民党が中国の唯一の代表かをめぐって対立することになります。運命のいたずらとでも言いましょうか。

 さて、1926年に中国に戻った鄧小平は、翌年、国民党の蒋介石が行なった共産党弾圧の嵐の中、地下に潜り、(ちなみに、この時「希賢」という実名を、「小平」と改名しています)ここで毛沢東と運命的な出会いを経験します。当時すでに指導者としての地位を確立しつつあった毛沢東は、翌年、弱冠23才の鄧小平を、党中央秘書長に抜てき。29年には広西省の共産党支部長、31年には党地方委員会書記と同時に共産党の地方機関誌『紅星報』の編集長にも任命しています。

 しかし、そんな順風満帆の鄧小平に最初の試練が待っていました。1932年、モスクワ帰りの知識人が中国共産党の実権を握ると、毛沢東一派は要職から次々と追放されます。鄧小平もすべての役職を解かれ、数か月間の留置所生活を余儀なくされました。

 ところが、そんな内輪もめのさなか、国民党の蒋介石は1934年、数十万人の軍隊を率いて江西省に本拠を置く共産勢力を包囲し、総攻撃を仕掛けてきたのです。戦いに敗れ、万策つきた共産党一派8万人は、逃避行に活路を見いだすべく、事もあろうか1万2000kmも歩いて陜西省北部まで「移動」します。この有名な「長征」の間に、力関係が再び逆転。毛沢東は支配力を取り戻し、同時に鄧小平は、毛沢東の側近として、中国共産党の若い指導者としての地位を築きあげることになります。

 さて、1937年、共産党と国民党の内戦が一時中断します。当時、中国に進出してきた日本軍に、共同で対抗する必要があったからです。「国共合作」と呼ばれるこの共同戦線は、以後日本が戦争に敗退する45年まで続けられますが、終戦を迎え、いざ共通の敵がいなくなると、国民党と共産党は47年、再び内戦に突入します。

 鄧小平はこの時、共産党最強の第二野戦軍指揮官として、次々と陣地を拡大。49年には、ついに国民党軍を破り、念願の中国の共産化を成し遂げます。このとき国民党の蒋介石一派は、台湾に逃れて中華民国政府を樹立。台湾の国民党が中国唯一の代表であると宣言します。ここから「一つの中国」の問題が始まるわけです。

 さて、鄧小平は、52年より周恩来の右腕として、副首相と財政相を兼任します。54年には、さらに党秘書長、全人代(国会のようなもの)常務副委員長、国防副委員長に就任。2年後には、52才の若さで政治局常務委員、つまり中国のトップ6入りを果たすという、極めて異例の出世街道を走り続けます。

2.「大躍進」と「文化大革命」について説明してください

 しかしながら、良いことは続かないのが世の常。1958年から毛沢東主席は、年率33%の増産目標などを掲げた、かなり無茶な経済政策を遂行しようとします。しかし「大躍進」というこの経済政策は、やはり長続きしませんでした。結局無理がたたって、逆に飢饉と貧困が蔓延する結果となったのです。

 その時、鄧小平は「白い猫でも、黒い猫でも、ねずみをよく捕る猫は良い猫だ」という言い回しで、「大躍進」の計画を大幅に修正。農民や工業生産者が、より自由に生産活動を行なうことを容認する「農業60条」と、「工業70条」いう新しい法体制を61年に築きあげます。つまり鄧小平は、共産主義一辺倒の「大躍進」計画に、資本主義の原理を取り入れることによって生産力の向上を促したのでした。

 ところが、この「修正主義」が、毛沢東主席の不信感を買うきっかけとなるのです。毛沢東自身が主導した「大躍進」を批判し、事もあろうか資本主義の原理を導入するとは何事か、毛沢東の教えに戻って、もう一度毛沢東を唯一絶対の指導者とする体制をつくろうという動きが、64年頃から、特に毛沢東夫人の江青女史と、その取り巻きの林彪を中心に出てきます。これは「文化大革命」と呼ばれますが、事実上は、毛沢東にタテをつくと見られる指導者の徹底的な粛清でした。

 もちろん、改革推進派だった鄧小平は槍玉にあげられ、66年末に失脚。江西省に「島流し」にされます。彼はこの関連で実弟を亡くし、長男は半身不随の障害者に、また、同罪で失脚した劉少奇は獄中死を遂げていますから、「島流し」は、かなり幸運な方でした。

 そうこうしている内に、中央で政争が起こり、71年に「文化大革命」の首謀者の一人で、鄧小平を失脚に追いやった当人の林彪が死去。鄧小平は、翌年北京に呼び戻され、73年には副首相の地位に返り咲きます。この時、周恩来はガンに犯され、毛沢東はパーキンソン氏病で、政治活動に関与できる時間は限られていました。76年には両氏が相次いで死去。鄧小平時代の幕開けかと思われました。

 しかし、鄧小平の行く手を遮ったのが、「文化大革命」の陰の指導者、江青女史でした。江青女史は、いわゆる「四人組」*の一人で、あからさまに鄧小平を非難。むりやり政治の場から引き吊りおろそうと暗躍し、76年に鄧小平を自宅に軟禁しますが、半年後には、鄧小平が逆に江青女史を実力で追放。77年7月、完全復帰を果たします。以後、鄧小平は中国の大指導者としての道を歩み始めるのです。

3.鄧小平の改革

 鄧小平には大まかに三つの目標がありました。一つが、毛沢東時代後期の「文化大革命」で地位を失った文化人、教養人の復権と、近代教育への取り組み。一つが、資本主義経済を取り入れた経済再建。一つが、ソ連に対抗するための親米政策でした。

 文化面では、言論統制を廃止し、思想、出版の自由化を推進しましたが、これが後に民衆の民主化の動きに火を付けることになり、天安門事件につながっていくのです。

 経済面では、78年に日本、79年にはアメリカを、中国指導者として初めて訪問して、経済援助及び投資をアピール。また、国内では次々に「経済特区」をつくって、外国の資本を優遇しました。現在、中国が世界一の資本受け入れ国となったのも、また長く年二桁台のめざましい経済成長を実現し得たのも、鄧小平のこの対外開放路線がきっかけでした。

 国際政治面では、ソ連との決別を決定し、実行に移したのも鄧小平でした。ソ連の脅威に共同で立ち向かうという名目でうまくアメリカを巻き込み、72年に日本と、79年にアメリカとの国交回復を実現した鄧小平は、49年以来、台湾を「中国の正統な政権」としてきたアメリカと日本に、「一つの中国」、つまり、台湾は中国本土の一部であるという主張を認めさせることにも成功します。

 さらに、香港の返還に執念を燃やしたのも鄧小平でした。イギリス側の「一部返還」の主張を跳ね返し、イギリス領香港全体の返還を強く要求。84年の香港返還協定調印にこぎ着けたのも鄧小平の大きな功績といえます。

 しかし、84才を迎えた鄧小平には、最後の試練が待っていました。ソ連や東欧の民主化の動きに感化された民衆の波が、現体制の変革を求め、天安門に押し寄せると、89年6月4日、鄧小平はこれを徹底的に弾圧するという過ちを犯します。中国はこの天安門事件以来、最強のパートナーであるはずのアメリカの世論を敵に回し、以後現在まで「人権問題」に振り回されることになったのです。

4.中国経済の躍進

 中国は、毛沢東の時代(1966年~77年)に、外国の協力を一切拒絶して自力更正を目指す、一種の鎖国政策をとってきましたが、この自力更正型の経済政策は「飢餓もなく成長もなく」という、その場しのぎの政策に終ってしまいました。このような苦しい経済状況を見て、従来の社会主義経済政策を変更して、市場経済への移行を決定し、外国からの資本導入を開始したのが前述の鄧小平でした。

 同氏の指導で79年に始まった大胆な経済改革と対外開放路線は、主に先進国からの資本と先進技術を導入することを柱としていましたが、この対外解放策の具体的な出発点となったのが、80年に設置された四つの経済特区(深圳、珠海、汕頭、廈門)でした。

 経済特区に進出する外国企業には、企業所得税を軽減したり、輸出税を免除したりする税法上の優遇措置が適用され、また 、工業用地の使用料を格安にしたり、一定の商品については、中国国内で売却する権利が与えられるなどの特権が与えられました。経済特区に続いて、84年には沿海港湾都市という経済技術開発区が14カ所、85年には7カ所の重点開放都市が、また同年、開放地域として長江デルタ、珠江デルタ、閩南三角地帯が、さらに88年には遼東半島、三東半島、及び海南島が続々と名乗りをあげました。このため、80年代初期には中国進出に及び腰だった日本企業の数も、90年代半ばにはすでに1000社を越えるまでになりました。

 このような、積極的な開放政策のおかげで、先進諸国の対中国投資は急激に伸び、世界最大の外資吸収国となりました。このおかげで、中国経済は順調すぎるほどの成長を遂げ、80年代の国内総生産(GDP)は、年平均9.9%の実質成長率を記録。90年代前半(90年~94年)は、さらにそれが12.4%にまで急進しました。この時期の先進国の成長率が2~3%だったことを考えると、この成長がいかに急なものだったかがおわかりいただけるでしょう。

5.江沢民体制から胡錦涛まで

 老衰した鄧小平は、1997年、自分の後継者として江沢民を推薦して亡くなります。江沢民はライバルを次々と追いやって権力を集中します。経済面では鄧小平の改革開放路線を引き継ぎ、社会主義市場経済という概念が導入され、中国は事実上の資本主義国になりました。2001年には世界貿易機関に加盟するなど、中国の国際化に務めました。結果、中国の国内総生産(GDP)は2000年に1兆ドルを超え、胡錦涛政権の2010年には6兆ドルを超えて、とうとう日本を抜いて世界第二位の経済大国に成長しました。

 経済の成長は政治面での中国の台頭を促します。江沢民政権の特徴は、大国としての中国の姿勢を声高に主張し始めた点です。日本との関係では「日本の戦争責任」という言葉が頻発しだしたのもこの頃です。98年に訪日した江沢民は、方々で日本の戦争責任を激しく追及し、直前に訪日して「過去の清算と、将来の関係強化」を謡って前向きな姿勢を示した韓国の金大中大統領とは好対照の印象を残しました。

 アメリカとの関係では、97年に訪中したクリントン大統領との関係が良好に推移するかと思われていましたが、99年に米国下院議会がまとめた核スパイ疑惑報告書に対して過敏に反応。逆に「中国は独自に中性子爆弾を開発済み」と応酬したりしました。特に台湾に対して早期警戒機や主力戦闘機の部品の調達を決定した米国政府に対しては執拗に抗議を続け、99年7月には米国西部に届く長距離弾道弾ミサイルの発射実験を敢行するなど、米中関係は一時期冷え込みました。

 台湾に関しては、李登輝総統の「中国と台湾の関係は国と国との関係」という発言を、独立志向的だとして厳しく批判。独立の動きに対しては武力行使も辞さないという発表をするだけではなく、予定されていた海峡両岸関係協会の中国側の代表となる汪道涵会長の台湾訪問も延期され、おまけに台湾海峡で台湾の商船が拿捕されるという事件まで起きました。

 対ロ関係ではソ連崩壊後に独立した12の共和国のうち、ロシアと中央アジアのカザフスタン、タジキスタン、キルギスタン、ウズベキスタンの5か国を中心に2001年に上海条約機構を結成。NATOに対抗する旧ソ連の組織として注目を集めました。欧米から一歩距離を置きながら、大国としての中国の世界的地位に向上に努めたのが江沢民の特徴といえます。

 江沢民は2002年に政界の表舞台から引退。国家主席の座は胡錦涛が引き継ぎました。胡錦涛は2007年に起こったリーマンショックとそれに続く世界金融危機に対して、60兆円規模の内需拡大措置を断行して、世界で最も早く金融危機から脱出させた功績があります。2008年には北京オリンピックが開催されました。その一方で、胡錦涛の権力基盤は弱く、引退した江沢民が作った上海閥という派閥が陰で強い影響力を持っていたことが指摘されています。そんな上海閥から次期国家主席に上り詰めたのが習近平でした。

6.習近平政権と中国の現状

 2012年に習近平が最高指導者に就任すると、中国はより一層の発言力を持つようになります。2013年には「シルクロード経済ベルトと21世紀海洋シルクロード」、俗にいう「一帯一路」構想を打ち出しました。この構想は、中央アジアからロシア、ヨーロッパに至るまでの内陸経済圏(一帯)と、中国から東南アジア、南アジア、アラビア半島、東アフリカまでを結ぶ海上ルート(一路)のインフラ整備と貿易の促進を掲げて、大規模開発と財政支援を中国の技術力と資金力で進めていこうというものです。その財政面を支えるため、中国は2015年「アジアインフラ投資銀行(AIIB)」を立ち上げ、中国中心の巨大経済圏の確立という夢に向けて動き出しました。しかしその一方で、巨大インフラ投資を支えるために借り入れた中国からの借款が膨れ上がり、債務不履行に陥る危険性のある国が複数出てくるに及んで、経済よりも政治優先で進められる中国からの投資に対して疑問を呈する国が出てきています。

 習近平政権によって進められた軍需産業の強化によって、2019年現在中国はアメリカの次ぐ世界第二位の軍事力を持つとされ、日本の尖閣諸島に対する領海侵犯や、南シナ海での人工島建設とその軍事基地化、さらにはスリランカに対する支援の見返りとして得た軍港建設など、中国の進出は軍事面でも顕著です。特に第一列島線、第二列島線という対米防衛を念頭に置いた防衛線の設定と、東アフリカに至るまでの海洋交通路の重要地点を結ぶ「真珠の首飾り戦略」が発表されると、同地域における海洋防衛で圧倒的な優位に立ってきたアメリカを刺激します。

 アメリカ第一主義を標榜するトランプ米国大統領は、軍事、貿易、さらには新型コロナウイルスの責任論に至るまで、事あるごとに反中姿勢を貫いており、最近では「米中冷戦」という言葉が聞かれるようになりました。

*4人組:1973年の第10回党大会で抜擢された王洪文副主席、張春橋政治局常務委員、姚文元政治局員と江青女史の4人を指す。文化大革命時の混乱の中で台頭し、周恩来、鄧小平らと対立。 

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