朝鮮民主主義人民共和国

出典:外務省HP 

1.朝鮮半島分断の歴史

 1910年の「日韓併合」から35年間、日本による植民地支配を受けた朝鮮半島でしたが、第二次世界大戦で日本が敗れ、やっと念願の独立が達成できると思ったその矢先、なんと米英中ソの4カ国が、一定の期間、朝鮮半島を分割して統治することになりました。朝鮮の人にしてみれば面白いはずがなく、当然各地で反対運動が起こりました。特に朝鮮半島南部のアメリカ信託統治地域では、李承晩(イ・スン・マン)氏を中心とする民族主義者が、かたくなな独立運動を展開していました。しかし、そんな中で一人だけ「ソ連が来るのならいいよ」と言った人がいました。それが故金日成(キム・イル・ソン)氏でした。

 金日成氏は、日本の支配下にあった朝鮮半島で、いち早く独立運動を展開した人物の一人でしたが、特にソ連とのつながりが強く、一時はすべてソ連の指示で動いていたこともありました。当初は、朝鮮半島の分裂を懸念して、南部の指導者と南北同時選挙を実施することで、朝鮮半島の韓民族全体を代表する民主主義体制の実現を目指した金日成氏でしたが、1948年5月、朝鮮半島南部が李承晩のもとで独自の選挙を行なって、一足早く大韓民国政権を樹立してしまったため、分断された朝鮮半島北部のソ連統治区をまとめて48年9月、金日成を国家主席とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国されることになったわけです。

 さて、第二次世界大戦後、極端に仲が悪くなったアメリカとソ連は、朝鮮半島でも衝突します。つまり、共産主義の拡大を目指すソ連・中国と、それを封じ込めようとするアメリカの意地が50年に朝鮮半島で衝突するのです。いわゆる朝鮮戦争です。双方で150万人もの死者を出したこの戦争は、53年の休戦協定で終結することになりますが、この時、北緯38度線を休戦ラインとする、現在の「国境」が画定したわけです。

 それ以来ごく最近まで、北朝鮮はソ連・中国と大の仲良しでした。「古き良き戦友」の中国とソ連は、政治的にも経済的にも北朝鮮に対する援助を惜しみませんでした。そのおかげもあって、北朝鮮の経済は、60年代に至るまでは、韓国の経済とは比較にならないほど好調でした。ところが、ソ連がそうであったように、70年代後半になると社会主義経済の行き詰まりが表面化してきます。そして、80年代に入ると、中国、ソ連との仲良し関係がぎくしゃくしてくるのです。まず、頼りにしていたソ連の経済が崩壊して、とても北朝鮮を援助するゆとりがなくなります。中国のほうも自国の経済改革で忙しく、北朝鮮にかまっている暇がありません。その結果、両国の協力が途絶えた北朝鮮の経済は急速に崩壊していくことになります。一方の韓国は、見る見るうちに力をつけて、こと経済に関しては北朝鮮が逆立ちしても勝てない国家に成長してしまいました。

 こうなると「古き良き戦友」もあてになりません。80年代末期になると、まずソ連が北朝鮮をソデにします。金欠病の末期症状に苦しむソ連は1990年、逆に韓国と国交関係を樹立してしまいます。また、投資と貿易の拡大を推し進めようと躍起になっていた中国も、北朝鮮を無視して韓国にすり寄り、こちらも92年に、一方的に韓国との国交を樹立してしまいます。つまり、戦友が一人去り、二人去り、とうとう独りぼっちになってしまった北朝鮮にとって、残された道は南北朝鮮の平和的統一による生き残りの道か、起死回生の切り札として核を選ぶかのどちらかでした。結果として北朝鮮は核保有の道を選び、90年代初期に高まりを見せた統一ブームも、一気に下火になってしまったというのが流れです。

2.北朝鮮の核疑惑

 1960年代、豊富なウラン鉱を発見した北朝鮮は、以来、旧ソ連及び中国の協力で原子力開発に着手します。当初、原子力によるエネルギー自給のみを目指していた北朝鮮でしたが、85年、ロシアから4基の原子炉を購入すると同時に、「放射線科学実験場」という、実質上の核再処理工場(使用済みの核燃料からプルトニウムを抽出する施設。核弾頭製造を可能にする)とされる施設の建設に着手します。しかし、表向きにはNPT(核不拡散条約)を受け入れ、翌年にはIAEA(国際原子力機関)に加盟することで、「核兵器などつくりませんよ」という立場をとっていました。

 さて、IAEAは、核物質の軍事転用を防ぐため、NPT加盟国に対し定期的な核査察の受け入れを義務づけていますが、北朝鮮側はさまざまな理屈をこねて、なんと7年間も核査察の受け入れを拒み続けていました。しかし、ソ連の崩壊、南北朝鮮の歩み寄りなど、周囲の状況の変化も手伝って、92年、北朝鮮はやっと重い腰をあげ、初めての核査察団を受け入れたわけです。ところが、その最初の査察でいきなりボロが出ます。

 IAEAの核査察官にかかると、使用済みの核燃料をごく少量分析しただけで、過去のすべての経緯がわかってしまうそうですが、このとき北朝鮮の再処理施設で収集したサンプルからは、過去に数回、使用済みの燃料棒を再処理した形跡が認められたのです。再処理して得られるものは、原爆の材料となるプルトニウムというものです。つまり、北朝鮮はその時点で原爆2~3発が製造可能なプルトニウムの量をすでに抽出していたことになります。これによって、北朝鮮の核兵器開発疑惑が一気に高まることになったわけです。

 それからというもの、核疑惑解明の使命を買って出たアメリカと北朝鮮との間で、2年間に渡る熾烈なイタチごっこが繰り返されます。92年は、「ないなら見せろ」「ないから見せない」的な応酬に終始しましたが、93年に入ると、IAEAによる度重なる査察要求に対し、北朝鮮側は一方的にNPTからの脱退を宣言します。国際法からいえば、NPTから脱退すると、3カ月後には自動的にIAEAの査察を受けなくてもいいことになりますから、あわてたアメリカは、「そんなことしたら経済制裁するぞ」と93年2月をめどに交渉の打ち切りを宣言します。一方、北朝鮮側は、「国連が経済制裁に踏み切れば、それを戦争行為と見なす」と逆に反撃。38度線付近に長距離砲を集中配備、スカッド・ミサイル部隊を強化するなど、臨戦体制を整えだしました。

 それ以降、核関連施設に対する全面査察に向けて、アメリカの圧力が高まると、北朝鮮は条件を小出しにして対話へ持ち込み、結局物別れになるというパターンが続きました。この時点で、アメリカには、戦争をするか、「アメ」を与えて核開発を断念させるかの、二通りの選択しか残されていませんでした。

 1994年にはいると、事態は一層緊迫してきます。「戦争も辞さない」という強硬論がアメリカの議会にも出てきました。実際、そのころの朝鮮半島は一触即発の状況で、日本も韓国も実戦の準備をしていたのです。そのようなにらみ合いを打開したのが、カーター元米大統領と故金日成主席との直接会談でした。会談の席上、金主席は核開発の凍結を約束、話し合いによる解決を求めたわけです。その後、金日成主席は突然の死を迎えるわけですが、米朝の話し合いは続き、94年10月、やっと合意に達しました。

3.米朝合意とその後の進展

 1994年の米朝合意では、現在北朝鮮が保有する黒鉛炉(プルトニウムを製造しやすい)を封鎖するかわりに軽水炉(プルトニウム製造には時間と手間がかかる)を導入することなどを決めていますが、現行の核施設の解体は10年後の2003年までで良いということになったばかりか、未申告の核関連施設に対する特別査察も5年間棚上げになりました。これで、北朝鮮が核兵器を製造していたか否かを証明することは実質的に困難になったわけです。また、すでに取り出した使用済み核燃料は、北朝鮮内で保管することになっており、さらには過去に抽出されたとされる、核弾頭数発分のプルトニウムに関しては不問ということですから、状況次第で、北朝鮮側はいつでも核兵器製造にとりかかることが出来るようになりました。実際、98年1月には、北朝鮮が地下核兵器施設の建設に取りかかっていたという調査結果もあります。

 一方、アメリカからのプレゼントは豪華で、軽水炉二基の建設と、軽水炉第一号が運転を開始するまでの原油供給(年間50万トン強)。貿易と投資の促進、米朝国交正常化への努力など、まさに至れり尽くせり。この約束を実行するための機関として、朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)が94年10月に発足しました。同年金日成の死去に伴って後継者となった金正日が北朝鮮の交渉相手になっても、核開発に関する不透明な態度は変わらず、その一方で、軽水炉導入その他に関する具体的な計画や交渉の内容については、北朝鮮側からいちいちイチャモンがつきます。日本が金を出すのは結構だが、口は出すな。韓国型軽水炉の導入はイヤだ。交渉はアメリカとの交渉に限る。コメをよこせなどといった、この上ない、わがままな要求でした。

 これに対し韓国側は、アメリカと中国を加えた、米朝韓中による四カ国協議を提案。北朝鮮側は「コメをくれなきゃ参加しない」と、ごねにごねまくりますが、結局日米韓は、それぞれ600万ドルの食糧支援を96年6月に決定。97年にはアメリカと韓国が追加支援を行なって(日本は、いわゆる日本人妻1822人の里帰り問題と拉致問題が未解決のため保留)、97年12月、北朝鮮を第1回四カ国協議に引っ張り出しますが、53年の朝鮮戦争休戦協定以来44年ぶりに行なわれたこの記念すべき協議でも、結局何も決まらず、米朝間で行なわれているミサイル協議も先延ばしされました。

 さらに、北朝鮮はこの期間、韓国に対しさまざまな嫌がらせをしています。96年には、韓国と北朝鮮の間の板門店共同警備区域に、北朝鮮軍が無断で進入する事件が発生。緊張が走りましたが、これも、53年に結ばれた休戦協定をほごにして、アメリカと新しい協定を結ぼうとしたものです。さらには96年、98年と韓国領内に進出した北朝鮮の潜水艦が座礁したり、漁船の網にかかったりして、北側のスパイ活動の事実が発覚するなど、韓国に対する挑戦的な事件が後を絶ちませんでした。99年にはとうとう黄海で北朝鮮の工作船と韓国海軍が衝突。銃撃戦を行なうという事態まで発生しました。

4.対北朝鮮強硬派の台頭と小泉訪朝

 1998年に入ると、北朝鮮側から「約束の年間50万トンの重油の供与が滞っている」という理由から、核開発の凍結を解除するという脅しがきます。同時に、北朝鮮側が、国際原子力機関(IAEA)の査察を妨害している事実や、ノドン中距離弾道ミサイルの実戦配備を完了したという事実が判明。さらには98年9月、「衛星」と呼ばれる弾道ミサイルが三陸沖の太平洋方向に向けて発射されるに及んで、さすが忍耐強い日本も一発奮起。日朝国交正常化努力の凍結、日本と北朝鮮を結ぶチャーター便の運行凍結、さらにはKEDOに対する支援の停止などを含む対北朝鮮制裁策を発表します。政府はさらに、日本独自の軍事衛星を導入することや、弾道ミサイルを打ち落とす防衛システム(TMD:Theater Missile Defense)の共同研究を、アメリカとともに開始しました。

 「衛星」とされるこのミサイルは、当初ノドンの改良型の2段式テポドン長距離ミサイルだと考えられていました。テポドン1号型の射程は約2000kmとされ、これが実戦配備されると、日本全土がその射程距離に入ります。しかし、その後、このミサイルが実は3段式で、その射程も4000kmから6000kmに達するものであったことが判明しました。

 このような北朝鮮の態度にイライラ感を募らせたのは日本だけではありません。アメリカでも、クリントン大統領の煮え切らない北朝鮮政策を批判する声が高まり、特にロバート・リビングストン下院議員、ジョン・マッケイン上院議員などを中心とする共和党議員は、北朝鮮に交渉の主導権を握らせておくことに関して強行に反対。ミサイルおよび核開発を止めているという証拠を見せなければ、94年に締結した「枠組み合意」は停止すべしとする強硬意見が噴出しました。

 これら強硬派の意見を受け継ぐ形で、ブッシュ新政権では、北朝鮮をイラン、イラクとともに「悪の枢軸」とする外交方針が公表され、クリントン政権時代の譲歩政策から一転して強硬姿勢を打ち出しました。

 そんな中、2002年の9月17日、日本の小泉首相が金正日総書記と平壌で会見。国交正常化会合の再開で合意するという歴史的な動きがありました。会談の場で北朝鮮側は、核問題の包括的な解決のため、関連するすべての国際的合意を遵守することを確認。またミサイル発射のモラトリアムを2003年以降も更に延長していく意向を表明しました。もしこのことが誠実に守られることになると、長い間の懸案事項だった朝鮮半島の安全保障問題も、解決に向けて大きな一歩を踏み出すことになったのでしょうが、どっこい北朝鮮は日本人拉致問題や賠償問題などで意見が対立し、それ以降日本との話し合いを拒絶しています。

 2011年に死去した金正日総書記の後を継いだ金正恩総書記は、軍事優先の「先軍政治」を継承し、さらに強化します。核開発とミサイル開発を強力に推し進めると同時に70名以上の幹部を処刑するなどしてさらなる権力固めを行いました。2017年に実兄である金正男がマレーシアの空港で暗殺された事件にもかかわっていたとされます。2018年には「米国本土が我々の核攻撃の射程圏内にある」と発言するなど、恐喝にも似た強硬姿勢に出る一方で、2018年4月には、板門店の軍事境界線を越えて韓国側を訪問。11年ぶりに南北首脳会談を実現したり、同年6月にはアメリカのトランプ大統領と史上初の首脳会談を行ったりと、融和に向けた動きもありましたが、翌2019年に行われた第二回米朝首脳会議では北朝鮮側が経済制裁の全面解除に固執したために決裂。以後再開のめどはたっていません。

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