台湾

出典:外務省HP 

1.台湾の歴史を手短に解説してください

 台湾は「台湾人」によって統一されたことが一度も無かった島です。最近まで台湾を統治してきたのは、すべて外国の勢力でした。台湾が世界史上に姿を現すのは、せいぜい400年ぐらい前のことですが、最初に台湾にたどり着いたのがポルトガルで、1544年あたりのこととされています。また、当時の台湾は、そのころ東アジア一帯を荒らしまわった倭寇、つまり日本の海賊の拠点があったといいます。

 さて1596年、インドネシアのバタビア(ジャカルタ)に東南アジア貿易の拠点を置いたオランダは1602年、オランダ東インド会社を設立してさらに中国と日本への進出を計画。本格的な植民地経営とその獲得に乗り出します。オランダ東インド会社は、当初その中継基地をマカオに求めましたが、マカオは1557年にすでにポルトガルの拠点となっていましたから、その代替地として台湾を目指すことになります。1622年に澎湖島を占領。24年に台湾本島を占領したオランダ東インド会社は、ポルトガルに変わって対日貿易を独占し、1639年に徳川幕府が鎖国を宣言してからも長崎の出島を通じて対日貿易を続けたことはご存じの通りです。

 1571年にフィリピンを植民地化したスペインも、対日貿易におけるオランダの優位に目をつけ、1626年に台湾北部を占領して17年間統治しますが、結局オランダに妨害され、撤退を余儀なくされました。

 このオランダの植民と支配に終止符を打ったのが鄭成功(てい・せいこう)です。彼の父は、明朝末期の東アジアの海で知らない人はないほど強力な海賊の頭でした。そして母は、父が長崎の平戸で知り合ったという田川という日本人女性でした。さて、明朝が蒙古系の清朝におされて滅亡の危機に貧したとき、皇帝はこの海賊の頭を頼りにして寵臣として登用しますが、結局清朝に敗れ、母も自害してしまいます。そこで復讐を誓った子の鄭成功は台湾に渡って清朝に対峙することを決めて、1662年、現地のオランダ勢力を一掃してしまいます。鄭成功氏は、台湾移住後1年足らずで短い生涯を終えますが、その武功は後々に語り継がれ、江戸時代には、彼の波乱万丈の一生を描いた文楽『国性爺合戦』が近松門左衛門によって書かれています。

 さて、鄭成功の死後、鄭一族が台湾の統治を引き継ぎますが、後継者選びにまつわる鄭一族内の度重なる内紛の隙を突かれ、1683年、台湾は清の軍門に下ることになります。しかし、中国にとって台湾はあまり興味のある土地ではなかったらしく、当時は台湾から撤退する意見が多数派を占めていたといいます。また、台湾の領有が決定された後でも、中国本土から台湾への渡航は特別な場合を除いて禁止されていました。中国にとって、台湾は病気の蔓延する不毛の地で、海賊や罪人の住み家であって、直接統治を積極的に行なうべき土地とは見ていなかったようです。そういう感覚が抜けきれていなかったせいでしょう。1895年、日清戦争で敗北した中国(清)は、台湾と澎湖列島とを日本に手放します。以後、第二次世界大戦で日本が負けるまでの50年間、台湾は日本の支配下にはいるのです。

2.日本統治下の台湾は、どのようなものでしたか?

 1895年に台湾および澎湖列島を手に入れた日本でしたが、このことと、台湾の住民を統治することとはまったく別のことでした。台湾の住民は、清国が台湾を手放しても、台湾は自分たちのものだという自負がありましたから、当初はフランスの力を借りて独立宣言を行なったほどでした。よって、日本軍が進駐する際にも、かなりの抵抗運動が繰り広げられ、また、樺山資紀、桂太郎、乃木稀典と三代続いた台湾総督の時代には、ゲリラ活動が活発化して総督府を悩ませました。しかし、第4代目の児玉源太郎の民生長官として台湾に赴任した後藤新平は、留守の多かった児玉の代役を務めましたが、台湾の慣習をよく研究し、日本の制度をそのまま持ち込むのではなく、台湾の伝統を損なわないように注意しつつ統治を行ない、武力抵抗を徹底的に弾圧する一方で、各種のインフラや産業の育成に取り組みました。産業育成の成果は著しく、併合10年目となる1905年には、台湾は本土からの財政補助を受けずに、経済的に独立するまでに発展することになりました。

 また、台湾総督府は教育にも力を入れ、第二次世界大戦敗戦直前の44年には、児童の就学率が92.5%という、飛びぬけた高水準を誇っていました。また高等教育も充実しており、帝国大学1校が設置されたほか、特に1920年代以降台湾の学生が日本本土の大学に留学する機会が増え、現在の台湾の政・官・財界の多くのリーダーたちがこのようにして日本の教育を受けたわけです。

3.第二時世界大戦後の動きを教えてください

 1945年、日本の敗戦により台湾は中国本土に返還されます。この時、台湾住民はすべて中華民国の国民とされたのですが、台湾で日本人として生活を送っていた住民を「本省人」、そして、中国本土から新たに台湾に移住した者を「外省人」として区別しました。さて、この「外省人」が台湾に受け入れられるまでには相当の時間が必要でした。また、当時台湾に赴任した国民党の官僚の間に腐敗が蔓延していたことも、「本省人」である台湾人の不評を買いました。中国本土から来た官吏の効率は悪く、経済的にも疲弊をきたすようになると、本省人と外省人との対立は激化して、1947年、ついに「2・28事件」と呼ばれる抗議運動が台湾全土を覆います。これをみた中国国民党政権は、台湾に兵を送り、なりふりかまわず虐殺を行ないました。3万人弱もの犠牲者が出たこの事件で、当時の台湾の指導者のほとんどが粛清され、以後しばらくは政治の空白が問題化するほどの影響がありました。長らく国民党政権の間でタブー視されてきたこの事件は、台湾の独立運動が海外で展開されるきっかけをつくった点で、非常に重要なものです。

 さて、「2・28事件」が勃発した同じ年、中国本土では蒋介石率いる中国国民党と、毛沢東率いる中国共産党が主導権を争って内戦(国共内戦)に突入します。形成が不利になった国民党一派は、49年台湾に逃れ、以後、台湾に中華民国政府を樹立。中国本土の共産党政府と台湾の国民党政府とは、ごく最近まで互いに「我こそは中国の正統な政権である」と主張し合って対立することになりました。

 台湾に逃れた国民党の蒋介石総統は、一党独裁の体制を整えますが、75年にその跡を受け継いだ長男の蒋経国も、「蒋帝国」といって良いほど、台湾を中央集権的な独裁国家に仕立てあげます。また、縦横に張り巡らされた秘密警察網によって反政府運動は徹底的に弾圧されるなど、この頃の台湾は現在の民主化された台湾とはかけ離れたものだったようです。

 蒋経国による独裁体制は彼の死去する88年まで続きますが、その後を継いだ李登輝総統のもとで、台湾は著しい変化を遂げるようになります。李登輝総統は、外交では中国との不必要な対立を避けて現実路線を歩むこと、また国内では民主化を推進することに力を注ぎ、92年には台湾初の総選挙を、また96年には史上初の民主選挙による総統選挙を実施しました。また、後継者の育成のために、2000年の総統選挙には出馬しないことを自ら宣言するなどして、民主主義の発展を支えました。

4.中国はなぜ「一つの中国」という言葉にこだわるのですか?

 さて、中国本土の共産党政権は、台湾に政権を樹立した国民党一派を打倒しようと躍起になりますが、なにせ共産主義の封じ込めを狙うアメリカがにらみを利かせて、自由主義体制の台湾を中国の正統な政権と認めていたものですから、1950年代から60年代にかけては、おいそれとは手が出せませんでした。

 ところが70年代に入ると、アメリカが態度を一転します。中国は60年代、ソ連との関係を自ら絶ち、独自の社会主義経済路線を歩み出していました。極東でソ連包囲網の強化を模索していたアメリカにとって、反ソ連の立場に転じた中国は、願ってもない友好国候補となったのです。

 1972年のニクソン大統領訪中を機に、米中関係は緩和。79年には、台湾を無視して中国との国交を正常化してしまうのです。中国共産党としては、永年の夢だった「台湾政府打倒」を今こそ、とばかり「一つの中国」つまり、中国の正統な政権は共産党政権のみであり、国民党主導の台湾が分離独立すること(つまり二つの中国)は許さないという原則を打ち出すのです。アメリカも、72年に中国との国交を結んだ日本も、中国側の主張する「一つの中国」の原則に理解を示して、台湾を独立国家とする従来の方針を一転。以来、正式な国交は開かれないまま現在に至っているのです。

 しかしながら、79年にアメリカが台湾との国交を断ったとき、決して台湾を見捨てたわけではありませんでした。同年、アメリカ議会は「台湾関係法」という18カ条の国内法をつくり、台湾との関係の維持を明示したのです。特に、この法律には台湾に対する武力行使と軍事圧力を排除するアメリカの方針がうたわれており、また、台湾の将来は、台湾住民の受け入れられる方式で解決すべきであることも同時に指摘されています。

 1996年、台湾で初の民主選挙による総統選挙が行なわれた際、中国が軍事演習を行なって圧力をかけましたが、それに対しアメリカが空母2隻を台湾に送って中国をけん制したのも、この台湾関係法があったからでした。

5.現在の中台関係はどうなっていますか?

 先進諸国が中国との国交を樹立していく中で、国際社会から見放された台湾は、李登輝総裁の言葉を借りると「文句の一つも言わず、一生懸命に」働き、今や国内総生産が5,900億ドル(2018年)でアジア第4位という、急速な経済発展を遂げます。強い台湾経済は、1997年のアジア通貨危機の影響もさほど受けず6.8%という伸びを記録したほか、東南アジア諸国に対しては台湾独自に財政援助を行なうほどの余力がありました。2010年には一人当たりの国内総生産(GDP)が日本を超えるなど、成長の勢いは止まりません。

 それにつれて、中台間の経済関係も90年代に著しい伸展を見せました。87年に住民の中国大陸への訪問を承認した台湾では、90年代初期にかけて「大陸ブーム」とでもいうべき現象がおきます。大陸訪問のために必要な「台胞証」(ビザのようなもの)の発効件数は90年の92万件から、92年には150万件に増加。それにつれて、貿易額も90年から92年にかけて倍増。直接投資額も累計で日米を上回るほどの勢いでした。

 経済政策に力を入れ、外資の導入に躍起になっている中国はこれを大歓迎。「一つの中国」の原則は変えられないが、観光や学術交流などの民間レベルの交流と、通商、通運、通信の活性化-いわゆる「三通四流」は積極的に支持するという立場をとり、2010年には中国本土との間で両岸経済協力枠組協議が発足しました。また、中台間の経済関係が伸展するにつれ、中国側の態度も柔軟になりました。従来はかたくなに拒んできた、国際機関への台湾の参加を容認するようになり、現在台湾は、「チャイニーズ・タイペイ」の名前で、アジア開発銀行やAPEC(アジア・太平洋経済協力閣僚会議)に参加していますが、これは台湾の存在自体を否定してきた以前の中国と比べると相当な変化といえました。

6.李登輝総統以降の台湾の状況は?

 2000年以降の政局は、台湾はすでに独立国家であるとする民主進歩党(民進党)と、台湾の独立に反対の姿勢をつらぬく国民党という二大政党の争いが繰り返されています。まず2000年の選挙で民進党が国民党を破り、台湾史上初めて国民党が敗れる事態になりました。民進党の陳水扁氏は2004年の選挙でも再選されますが、閣僚の汚職事件で支持率を低下させ、2008年の選挙では国民党の馬英九が勝利。国民党が8年ぶりに政権に返り咲くことになりますが、中国政府はこれを大歓迎。中台の関係は親密化します。馬英九総統は2012年の総統選挙でも再選され、2015年には習近平氏と分断後初めての中台首脳会談を行いました。しかし、このような国民党のあからさまな親中政策は国民の不信感を買い、2014年末の統一地方選挙で大敗してしまいます。馬英九総統は選挙大敗の責任を取って辞任。2016年の選挙では再び民進党が躍進。蔡英文総統が選出されました。

 蔡英文総統は総統就任以来中国の介入に対して断固とした態度をとり続け、「一国二制度」が中台関係にとって最良の方法という習近平中国主席の発言にはっきりとNOを突き付けました。おりしも「一国二制度」が中国の介入で崩壊寸前の香港の状況を見た台湾人の多くは蔡総統を強力に支持。さらには、新型コロナウイルスに対する迅速で正確な対処、情報の伝達、適材適所の人材登用など、世界最高の防疫水準を見せつけた台湾に対する各国の評価がうなぎ登り。WHOとの政治的な癒着が指摘される中国とは対照的に、「一つの中国」の縛りのためにWHOにオブザーバー参加すらできない台湾に同情が集まっています。

 東日本大震災の際には台湾から真っ先に世界最大の200億円超の義援金が届けられました。台湾の人口が2300万人ということから考えても破格な数字です。しかし、震災一周年の追悼式典では当時の民主党政権の中国に対する忖度から台湾の代表が指名献花から外されました。それに対して台湾の外交部長は「義援金は思いやりの結果で感謝を得る目的ではない。(日台)関係は花束一つで揺るがない」と言われたそうです。一日本人として、本当にやるせない気持ちがしたのと同時に、台湾の人には心からの敬意と感謝を表さずにはいられません。一日でも早く台湾が国際社会で正当な評価を得る日が来ることを願うばかりです。

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