香港特別行政区 

出典:外務省HP 

 1997年7月1日、世界中の人が見守る中、香港は155年間にわたるイギリスの統治を経て、ついに中国に返還されました。しかし、それから20年もたたないうちに香港の住民と中国本土との対立が表面化。2020年には国家安全法の成立と相まって、対立はますます激しさを増しています。以下では一体どのような経緯で香港がイギリス領になったのか、また、中国に返還しなければいけなかった訳は何だったのか、これからの香港はどうなっていくのかなどについて見ていきましょう。

1.そもそも香港はなぜイギリス領になったのですか?

 旧英国領香港は、香港島、九竜半島の先端と、新界およびランタオ島及び周辺部という四つの地区で構成されていましたが、これらの地区は、それぞれ別々の経緯でイギリスの植民地になりました。

 最初にイギリス領になったのが香港島です。18世紀後半からイギリスと中国(清朝)との貿易が活発になりますが、イギリスではこの頃から紅茶を飲む習慣ができて、中国から輸入したお茶や陶磁器等が、飛ぶように売れ出したのです。一方、イギリス製品は、中国であまり売れなかったため、英中間には深刻な貿易問題が生じました。

 ここでイギリス商人が考え出したのが、当時イギリスの植民地だったインドで栽培していた麻薬(アヘン)を、中国向けに輸出して貿易赤字を減らそうという阿漕なものでした。

 清朝側も、このような悪徳商法を見捨てておけず、1839年、麻薬密売の大規模な取り締まりを断行するのですが、なにせ相手は当時最強の大英帝国海軍です。翌40年には逆に力で清朝の軍隊をねじ伏せてしまいます。調子に乗ったイギリスはこの機会に中国進出の足場をつくろうと広州を占領。さらに南京にまで攻め上がります。これが世にいうアヘン戦争です。結局、42年に結ばれた南京条約で、清朝はイギリスに無条件降伏。そこに盛り込まれたのが香港島の割譲でした。

 しかし、清朝は、あくまで麻薬の取り締まりを続行。かくして南京条約締結後、さらに傍若無人に振る舞う密売人と、清朝の役人との確執は続きました。しかし、問題は力で解決するのが、当時の大国のやり方です。56年、清朝の役人はイギリス船籍のアロー号に積まれた麻薬を発見。船員の身柄を拘束しますが、「イギリスの旗を掲げた船に立入検査するとは何事か」と、逆にイチャモンをつけられ、またもやイギリスの軍事介入を招きます。

 結局、60年に結ばれた北京条約で、清朝は、香港島に隣接する九竜半島先端部をイギリスに割譲するはめになります。

 19世紀も末になると、清朝は崩壊寸前。94年に起こった日清戦争では、新興国日本にボロ負けしてしまいます。それを見た西欧列強は、この機をついて、おいしいところを取ってやろうと、次々と中国進出を開始。イギリスも九竜半島に隣接する地域(新界)とランタオ島及び周辺島部を物色します。

 しかしながら、今回は西欧列強が近くにいますし、前回までのような、あからさまな軍事行動で領土を奪い取るという作戦はとれません。そこで出てきたのが、これらの地域を中国から99年間「借りる」という手口でした。まあ、99年間も借りていれば、そのうち踏み倒せるだろうというわけです。結果、98年に北京で締結された「香港地域拡張に関する条約」で、新界とランタオ島が手に入り、旧イギリス領香港の全容が確定したというわけです。

2.なぜ1997年になって香港を中国に返還することになったのですか?

 1898年に締結された「香港地域拡張に関する条約」、つまり新界地区及びランタオ島周辺地域を99年間借りますよという取り決めの満期が1997年6月30日だったからです。

 中国は、今までにも何度となく香港返還をイギリスに要求してきましたが、イギリス側は、「清朝と結んだ99年の租借条約は国際法的に有効」という立場を貫き通し、返還の要望には応じませんでした。逆に、その論法でいくと99年目に当たる97年以後は、香港を返してくれと言われれば、それに従わざるを得ません。そこで、満期を15年後に控えた1982年に、97年以降の香港の所属をどうするかといった問題を、中国側と協議する必要があったわけです。

 かくして、82年のサッチャー英首相(当時)訪中以後、香港返還問題についての話し合いが始まったわけですが、当時イギリス側は、「新界地区とランタオ島は、99年間借りている土地だから、返せと言われれば仕方がない。でも、香港島と九龍半島は、国際法上、永久にイギリスの領土だから、これだけは何とか返還しないでおこう」という考えでした。しかし、当時の鄧小平氏は、イギリスの主張をはねつけ、九龍半島、香港島を含めたイギリス領香港全体の返還を頑として要求します。

 以後、2年間に渡る話し合いの結果、英中両国は香港返還に関する取り決めに正式に調印。これによって、1842年の南京条約以来、長い間イギリスの植民地として、中国本土との政治的影響力から独立していた香港全体が、1997年7月1日に中国に返還されることになったわけです。

3.返還後の香港はどうなりましたか?

 1984年、香港返還が正式に調印されてからというもの、果たして香港が経済的にも政治的にも、社会主義国の中国とうまくやっていけるのかという不安が、香港内外に広がりました。中国の介入が独裁的なものになるという不安から、かなりの数の香港住民が海外へ活動の拠点を移し出したのもその頃からです。

 93年の香港の人口はおよそ620万人でしたが、そのうち推計百万人が97年までにカナダ、アメリカ、オーストラリア等に移住したと言われています。さらに、返還後の中国の影響を嫌い、活動拠点を移した外資企業もありました。

 対する中国は、90年に「中華人民共和国香港特別行政区基本法」を公布。97年7月1日に返還される香港を「特別行政区」に指定して、軍事・外交の項目以外の憲法、法体系、及び選挙制度の継続を含む「高度の自治権」と現有する私有財産を認めること、さらに「香港の資本主義体制と生活様式を50年間変更しないこと」等を宣言しました。つまり、外交と軍事以外は、50年間今まで通りにやっていいよということです。これは、俗に「一国二制度」と呼ばれるものです。

 しかしながら結局は返還後を見据えた中国側の強引な干渉が目立ちました。1991年には香港初の直接民主選挙で民主派が圧勝。1995年に行われた香港最後の立法評議会選挙でも民主派が躍進しましたが、この選挙で選出された立法評議会を中国側が否認。返還前にもかかわらず中国側主導で組織された臨時立法議会を優先させました。また中国政府は香港の人権法を改正して集会やデモ、さらに報道の自由を制限する方向性を打ち出し、香港住民の不満を募らせる結果となりました。

4.国家安全条例とはどのようなものですか?

 国家安全条例というのは、香港返還の時にイギリス政府と交わした香港特別行政区基本法の第23条に出てくるのですが、国家反逆、国家分裂、動乱先導、中央政府転覆、国家機密窃盗取などを企てる内外の政治組織の活動や接触を禁止するための「国家安全条例」を、香港政府自らが制定することとしています。つまり、中国政府としては、中国共産党の意向にそぐわない民主化勢力や、反政府勢力など、気に食わない勢力はすべてこの国家安全条例で取り締まることが出来るようになるわけです。

 ただし、この条例は中国政府が自ら制定することはできず、あくまでも香港行特別政府が主体となって制定することになっていましたから、中国政府はその実現に向けてたびたび香港政府に圧力をかけることになるのです。そして、当然そのような圧力は、50年間の高度な自治を約束された香港市民の反発を買います。

 2003年、胡錦涛政権の時代には国家安全条例の早期成立を董建華初代行政長官に強く働きかけたことに対し50万人規模のデモが展開されるに及んで胡錦涛氏は国家安全条例の棚上げを余儀なくされました。しかし習近平政権が発足してからは、香港に対して高圧的な姿勢が目立つようになり、2014年には、中国政府が一国二制度の従来の解釈を変更。香港に与えられた50年間の高度な自治権に関して、「なおこの自治権は中国中央指導部の委任・承認に基づき地方を運営する権限であり、完全な自治権、地方分権的なものではない」という解釈を付け加えたのです。また初の直接選挙が導入される予定だった2017年の行政長官選挙も、中国政府寄りの行政長官が選出される仕組みに変えられた限定的な選挙になってしまいました。

 この様な中国の干渉に反対する学生を中心に2014年9月、授業のボイコットから始まった抗議集会は瞬く間に拡大。繁華街や幹線道路にバリケードを作って反政府デモが繰り広げられました。「雨傘革命」と呼ばれるこの事態の収拾には4か月間もかかりましたが、結局2017年の行政長官選挙では直接選挙方式は導入されず、中国政府の意向を反映した林鄭月娥女史が選出されました。

 さて、林鄭月娥行政長官が中国政府から求められたのは国家安全条例の早期成立でした。しかし、民主派の激しい抵抗を受けた長官は、よりハードルが低いと思われた「逃亡犯条例」を改正する案を提出します。これによって香港で罪を犯した者が中国本土に引き渡されることが可能になるはずでしたが、これが言論弾圧や政治活動の規制につながるとして香港の民主派は2019年6月から4か月に及ぶ大規模な反対運動を展開。「逃亡犯条例」の改正を阻止します。

 この反対運動の勢いそのままに2019年末に行われた区議選挙では民主派が圧勝。2020年9月には立法会の選挙が予定されており、ここでも民主派の圧勝が予想されていました。直接選挙で獲得できる議席は全体の半分にすぎませんが、全体の3分の1の議席が集まると議案を否決できる権利が与えられますから、少なくとも中国政府の一方的な圧力には抵抗することができます。

 これに危機感を覚えた習近平主席は、2020年5月28日の全国人民代表大会最終日に「香港特別行政区における国家安全保護に関する法律制度」すなわち「国家安全法」を力ずくで可決します。今後は民主化運動を取り締まることが法的に可能となったわけですから、香港の民主化勢力に対するより一層の弾圧が予想されます。

 しかし、この「国家安全法」は、中国政府が決定した一方的な法律であって、あくまでも香港行特別政府が主体となって制定することを規定した香港特別行政区基本法に違反します。もし、中国政府が「国家安全法」を根拠に香港の民主派を取り締まるようなことがあれば、これは立派な国際法違反ですから、中国政府は対外的リスクも背負いながらの行動になります。中国への完全併合まで30年を切った香港の今後の展開は予断を許しません。

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